詩人 長田 弘さんに感動!
今日は久々に土曜日休日、3連休の初日。
いつもより1時間遅れの5時45分起床。
アッ見忘れた?
NHKの「あの人に会いたい」
デッキを見ると、録画の赤ランプ。
娘が予約してくれていた。
本当に大好きな番組で、今日は詩人の長田 弘さん。
とにかくよかった!内から湧いてくるものが実感できて!
ここに紹介させて頂きます。
「人生は森のなかの一日」より詩集「詩ふたつ」
何もないところに
木を一本、わたしは植えた
それが世界のはじまりだった。
わたしたちが死んで
私たちの森の木が
天を突くほど、大きくなったら
大きくなった木の下で会おう。」
木や森のうつろう季節など、なにげない日常の世界を言葉にした詩人、長田 弘さん。
その詩は人々の内に眠る風景の記憶を呼び覚ましさまざまな世代から愛された。
長田さんは昭和14年福島県福島市に生まれ。
戦争中は疎開先の山間の村で木々に親しみ木の記憶と共に育った。
山の町に生きた人、川の町で生きた人、海の町で生きた人
それぞれそういうところで生まれて自分の後ろ(背景)ってのは必ず在るわけですね。
うんと簡単にいうと、背負っているものは「風景」なんですよ!
ところが後ろに在るがために前進しなきゃいけないと思うと後ろに在るものを忘れてしまう。
でも自分を作っているものはその風景だと
自分が育ったのはその風景からだと
そういう風にいつもこう考えてるみたいなんですね!
詩は書かれざる哲学書を書くこと
心の目印になるものをいう想いがあった。
いっぱい目印を残してきたのが詩だったから、それが僕はとても大事なことだと
読む方から考えてみればその詩の中に求めているものは一種の「痕跡」なんですね。
そこに残されている痕跡というものは自分にとって何であるかということを清少納言だろうと、松尾芭蕉だろうと、良寛さんだろうと、それが「自分のすぐ隣にいる」という感覚を持てるのが人間の特徴だと思います。
500年前や700年前に死んだ人でもその人が書いたものがあって、自分の心の目印になる人だったら身近に感じることが出来る。
人は皆風景の中で育てられていくという想いを強くしました。
「自分の位置というのはどこにあるのか!と言われた時に間違いなく言えることは「ただ空の下にいる」ということだろうと。
その風景の子供たちは、みんな空の下にいるわけです。ですから風景の違いというものはわれわれを隔てるものではなくて、同じ空の下にいるーという、 お互いの自覚を促すものであると思う。
東日本大震災に詩集「奇跡」を出版、故郷を襲った大震災、その直後、病に倒れた長田さんは日常を改めて見つめた。
日常というものは、ずっと当たり前のことだと思っていた。
しかしその日常が実は本当に自分たちにとって必要な奇跡だったということを思い知らされたのではないか?
自分たちにとって必要な奇跡というものは自分たちの目の前にあるもの、平凡なものが一番本当は自分たちにとって奇跡じゃないかというふうに思われてならない。
見えないものを「見る」と簡単に言いますけれども、見えないものは「感じる」のですね。
見えないものを感じるという感覚を自分の中で生き生きしたものにしていかないと見えるものも見えなってしまうし、気配というものを感じられなくなる。
どうしても実際に何かを口にしたり言ったりしようとすると見えるものだけが中心になってしまう。
でもそれ以上にいろんな、そこには見えないものでもその気配を感じるものがある。
あるいは、そこに「在る」と感じられるけれども見えないものがあるという感覚は大事にしたい。
平和、日常と感じる力、その大切さを言葉にし続けた詩人、長田 弘さん。
その深い思いは先に逝った最愛の妻への詩にあらわれています。
「春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。
どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と
きれいな花を、手に持って。
どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。
どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。
死ではなく、その人が
自分のなかに残していった確かな記憶を、わたしは信じる。
言葉って何だと思う?
決して言葉にできない想いがここにあると指差すのが言葉だ。
春の日、あなたに会いにゆく。
きれいな水と、きれいな花を手に持って。」
自分たちにとって必要な「奇跡」というものは自分たちの目の前にあるもの。
平凡なものが一番本当は自分たちにとっての奇跡なのではないかって想われてならない。
詩人 長田 弘 さん 1939~2015 没 合掌